「基本的人権の保障」は日本国憲法の基本原則のひとつです。多くの大学の法学部では、1年間かけて「人権」を学びます。
日本国憲法の第3章では「国民の権利義務」が規定されていますが、その多くは国民の権利および自由についての規定です。憲法以外の法律(例えば民法や刑法など)でも権利の規定がありますが、憲法上の権利・自由はもっぱら「基本的人権」と呼ばれています。
日本国憲法上、国民の義務は3つしかありません(国民の三大義務、納税の義務[憲法30条]、勤労の義務[憲法27条1項]、教育を受けさせる義務[憲法26条2項])。
なぜ日本国憲法には国民の義務が3つしか規定されておらず、国民の権利自由ばかり規定されているのでしょうか。
ここに日本国憲法の重要な性格があります。
日本国憲法はときの権力者(国王や君主など)が国民向けに制定したのではなく、国民の側が自主的に制定したものです。
私達のこういった「権利」「自由」は侵害しないでもらいたい、侵害したら憲法違反となり、そういった侵害行為は認められませんと権力者に誓わせたものが日本国憲法です。日本国憲法に限らず、立憲民主主義に立脚した憲法がそういった性格の憲法なのです。
言葉を変えると、立憲民主主義に基づいた憲法では「時の権力者を縛る」のが憲法の役割となります。
だから日本国憲法には国民の義務に関する規定が少なく、権利自由ばかり規定されています。
この「時の権力者を縛るのが日本国憲法」という点は、今後の憲法改正を巡る動きをみておく際に非常に重要な視点になります。
政府与党が憲法改正を行おうとする場合、それが国民の行動を不当に制限するものではないか、政府与党に都合の良い内容になっていないかなど、しっかりと監視する必要があります。
国民は決して政治に無関心であってはなりませんし、逆に過激な行動に出て政府与党の正当な鎮圧を受けることはそれが他の国民にとって正当な行為とみなされてしまいます。
だからといって、もちろん国民は自分の思い通りにやりたい放題できるわけではありません。
単なるわがままは許されませんし、他の国民の権利自由を侵害するような行為も許されません。他の不特定多数のものにとって大迷惑となる行為も許されません。
どこまでが許される行為なのか、許されない行為なのかは、法律などの成文に規定されるか、裁判所によって判断されます。
大学の「人権」の授業の大半は、この許される行為と許されない行為の判断に費やされます。
この「基本的人権」の保障も実は平和主義とは無関係ではありません。
「目的」と「手段」という言葉との関係でいえば、「基本的人権の保障」は「平和主義」の目的といえます。
すなわち、そもそも日本が平和でなければ基本的人権は「絵に描いた餅」になるのです。戦争になれば、当然生命が脅かされますし、空襲で家は燃え財産権の保障(29条)がないがしろになります。
強制的に兵隊として戦地に向かわされること(徴兵制)はあらゆる「自由」を侵害します。
いわば、戦争は「基本的人権の保障」の全面否定といえます。
ですから、世の中が平和であってこそ、戦争が起こらない世の中であってこその「基本的人権の保障」なのです。